日本酒のこと、国稀のことをもっと知っていただきたい

平成19年度の米蔵ギャラリーは「もっと日本酒・もっと国稀」と題しまして、日本酒の豆知識及び国稀の豆知識を展示しております。 米蔵ギャラリーに入るとまず目に入って参りますのは、昭和30年代に製作されました張り子の国稀模型です。


酒瓶1本づつをドットに見立て、分割した浮世絵を60本の瓶で一枚に見立てた国稀オリジナルのアートです。

左 : 葛飾北斎  冨嶽三十六景 「凱風快晴」

右 : 葛飾北斎  冨嶽三十六景 「神奈川沖浪裏」


左:張り子の酒瓶

毎年7月末に催される増毛町の港まつりは、今年で50回目になります。このギャラリーに展示してある張り子の酒瓶は昭和30年代のものです。 車の天井に載せ、港まつりのパレードに参加しました。その時に店の玄関先から写した1枚の写真も掲載しております。

 

右:写真撮影用 

スポンサーボード 企業名が書かれたボードの前でヒーローインタビューや記者会見が行われております。そんな気分を味わえる撮影用ボードを用意しました。 「毎晩晩酌をする私は 国稀年間愛飲MVP です」なんてメッセージをつけて年賀状などに使えます。


国稀豆知識 日本酒豆知識
・源造徳利の由来 ・名前ベスト10
・鬼ころしの由来 ・北海道の酒類消費量
・人物:乃木希典 ・清酒上位メーカーの出荷状況
・お酒にまつわる記念日

源造徳利の由来

袋入り徳利としておなじみの「国稀 源造徳利」の名前にまつわるお話をご紹介しましょう。  

「源造」の名の由来は「忠臣蔵」で吉良邸に討ち入りした赤穂浪士の一人、「赤垣源蔵」にちなんでいます。(実際は赤垣:アカガキではなく赤埴:アカバネ 「垣」と「埴」のくずし字が似ていたので誤って伝えられたようです。)

源蔵は討ち入りの前夜の12月14日、雪の降りしきる中を日頃世話になった兄夫婦に最後の別れをしようと訪ねますが、兄は不在。借りた兄の羽織を相手に杯をかわしました。

翌朝、赤穂浪士討ち入りの報に接し、兄は四十七士の一人が弟であることを知ります。最後の別れに充分なもてなしができなかったことを、兄は大変悔やんだそうです。

それから「徳利の別れ」として講談などで語り継がれ、この時使われた「通い徳利」を「源蔵徳利」「源造徳利」「源三徳利」とも書くようになりました。 ※実際、源蔵には兄はおらず、妹婿とのエピソードを娯楽性の高い講談にする際、よりドラマティックに脚色したと言われています。

鬼ころしの由来

全国百社近い酒造メーカーが「鬼ころし」「鬼ごろし」という名前の酒を造っています。とても人気のある名前です。

鬼ころしの由来はいくつかあります、1つは有名な御伽草子の「酒呑童子(しゅてんどうじ)」の話で、源 頼光が鬼退治したところから生まれたとされています。

丹波大江山に住み、都に出没しては悪事を繰り返す鬼に、酒をたらふく飲ませて酔いつぶしたうえで退治する話です。退治された鬼の名前は「酒呑童子」ですが、「シュテンドルフ」のようなドイツ的な名前を漢字にあてたのではないかとか、外国の難破船の漂流民であったなど興味深い説があります。

また、古来より粗悪で悪酔いする強い酒のことを「鬼ころし」と呼んだようです。しかし現在では、鬼でも酔いつぶれてしまうほど美味しく、アルコール度数の高い辛口の酒という意味で広く親しまれています。

戦乱の世は甘口の酒が好まれ、太平の世は辛口の酒が好まれると言われています。

「鬼ころし」が人気の現在は天下太平なのですね。

人物:乃木 希典(元陸軍大将・伯爵)

「国稀」の由来の元となった乃木 希典。70才以上の方なら良く知っていることでしょうが、戦後生まれの人なら歴史好きでなければ深く知る機会がないことと思います。  

平成の世では乃木は世紀の軍神なのか、希代の愚将なのかと評価の分かれるところ。しかし、明治から昭和前期においては、日本人に最も尊敬された国民的英雄でした。

 

日露戦争における旅順(中国北部)攻略において、軍事司令官であった乃木は、3日で旅順を陥落する予定としながら、150日もの日数を費やし、日本側戦死者1万6千人弱、負傷者4万4千人を出す。ロシア軍の弱点とも言うべき場所、203高地を陥落し勝戦するが、無駄な犠牲を積み重ねたとし「軍事的才能が乏しい愚将」と呼ばれる由縁である。

 

しかし降伏文書の調印終了後のロシア軍司令官との会見において、各国特派員が撮影の許可を求めたが乃木は「敵将にとって後々まで恥が残る写真を撮らせては日本の武士道が許さない」とし、会見後「我々が既に友人となり同列に並んだところを一枚だけ許そう」と敵将に剣を渡し写真に収まったという。この敵将を思いやる武士のやさしい心は世界中に配信され多くの国々で”武士道の典型”として記憶された。また、この事実は「水師営の会見」として昭和20年まで小学校唱歌として小学国語読本に掲載されていた。これが年輩の方々が乃木を知る理由である。

また、この戦争では乃木は2人の息子を失うが、戦地より凱旋帰国すると「一人と泣いてはすまぬ、二人亡くした方もある」と大衆は共感を抱き、歓呼の声で迎えた。

 

明治天皇に信頼の厚かった乃木はその後、学習院の院長と裕仁親王(後の昭和天皇)の養育係りの職に命ぜられる。昭和天皇は後年「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学院であった」というほど尊敬されていたようだ。

 

明治45年7月30日明治天皇が崩御され、大正元年9月13日御大葬が行われた。遺体を乗せた棺が城を出発する号砲が打たれた8時過ぎ、乃木希典と妻静子は先帝に殉じ自刃を遂げる。自決の衝撃はすざまじく当時世界的に王室・皇族の権威が失われつつあった奇跡的な行為として伝えられた。

そして、多くの日本国民中で、その責任感・忠誠心・武士道に感動したと言われています。